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2008年1月

2008年1月30日 (水)

「クマグスの森」展で触発された気づき

南方熊楠の研究・思索は広範囲にわたりましたが、その中でも、粘菌の研究が有名です。このワタリウム美術館には増殖した粘菌(専門的には変形体と呼ばれるようです)も展示されていて、その形状が実に興味深いものでした。いわゆるメッシュ構造(網目構造)に成長していて、骨髄や脾臓の細網組織やシナップスで接続されている神経細胞群を彷佛とさせる構造でした。粘菌は、網の目状の巨大アメーバのようなもので、常に微生物を捕食しているようですが、骨髄や脾臓も網の目の隙間にリンパ球や赤血球などの自由細胞(動き回れる細胞)を存在させています。小さな細胞を、捉えておくにはそのような網の目構造になるということでしょう。当然、粘菌は単純な生物ですから、神経細胞も感覚受容器も有していませんが、接触した微生物を認識し(感知して食べられるものと判断し)、体全体の形状を変化させ(体全体に情報を伝達させることで可能)、捕食していることから、体そのものが神経系であり、細胞膜が皮膚であり、細胞質、細胞内器官が筋骨格、内臓であると見ることも可能でしょう。構造は機能の表現であると改めて、確信させられた粘菌観察でした。極論すれば粘菌も人も、そんなに違わないということです。ちなみに神経系は発生学的には皮膚、粘膜の上皮と同じ外胚葉から発生していますから、細胞膜が上皮と置き換えれば、粘菌は動く神経系であると考えることができるわけです。ちなみに粘菌を使ったコンピュータを理化学研究所(http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/press/2000/000926/)
が研究しているようですが、動く神経系ですからありかもしれません。構造、形状の意味と成り立ちを考えることは、実にエキサイティングな遊びです。以前にもどこかで触れたことがありますが、全てをDNAの設計図の視点から考えると、きっと行き詰まるであろうと、粘菌の自在な変形に通底した本質的共通形状が、教えてくれています。

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2008年1月28日 (月)

ワタリウム美術館で「クマグスの森」を観てきました

以前、患者さんから南方熊楠の存在を教えて頂いて以来、興味を持っていたので、南青山のワタリウム美術館で開催している「南方熊楠の人生、研究、哲学」に焦点をあてた展覧会に行ってきました。やはり知の巨人といっていい人物だったんだろうと思わせるその天才性に圧倒されました。なんと小学生の時に、本草綱目などを写本し、動物学の教科書をつくってしまうという圧倒的知能です、まさに神童です。そして彼の知的欲求は、森羅万象、興味を感じることすべてに及んでいるかのように強大であったのだろうと思わせるものでした。

 彼の卓越した知性は、20世紀に発展した哲学、思考方法である構造主義の説くところの「物事の本質を関係の中に見出す」という考え方をすでに当然のこととし、現在の客体と主体の不可分の関係を説く量子力学的思想をも包含しているような哲学に到達しているようでした。それがきっと「南方のマンダラ」が示唆していることなのだろうと解釈しています。今回は、哲学論的な論考になったので、感想が整理しきれていませんが、ぜひ多くの方に南方熊楠を知っていただきたいとの思いで書いてみました。ちなみに、正岡子規、夏目漱石、秋山真之(日露戦争の日本海戦での天才参謀、そのひ孫と私は高校時代同級生だったので覚えていました、自慢にならない自慢に聞こえる思い出です)と東京大学予備門で同級生だったようです。時代が天才を同時期に輩出させたのでしょうか、なにかその時代に嫉妬を感じてしまいました。

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2008年1月25日 (金)

マイナスイメージが得意なひとが多すぎます!

ひとは、不安なこと、恐れていること、うまくいかないことをイメージするのが、得意です。だから、プラス思考という言葉は知っていても、ほとんどの人はプラス思考ができません。
「痛くなったらどうしよう」と痛くないうちから恐れ、痛くなれば「このままずっと痛みが続いたらどうしよう」と不安になり、なかなか良くならない場合は「悪い病気だったらどうしよう」と思い悩みます。そして、その思いが強い人は、本当に悪い病気を作り出す人さえいます。すごい実現力です。この力をプラスの方向に使えば、多くの方々は健康を謳歌できるのでしょうけど。

  マイナス思考の人の口癖に「現実を認識することが重要」とか「最悪の事態を想定しておけば、そういう事態になってもあまり傷つかないですむ」などがあります。実は、悪い事態を常に想定することで「悪いことを引き寄せ、引き寄せた現実を認識することで、さらにそういう思考を強化している」ことを知らなければいけないのですが。

 痛みや病気がある人は、好きなことを思う存分楽しんでいる自分をイメージしてから寝て下さい。「この痛みが治りますように!」と祈ってはだめです。「にこにこしながら、自由自在に、飛び跳ね走り回っている自分をイメージする」のです。祈るのではなくありありとそうなっている自分をイメージすることがコツです。

 プラス思考や成功哲学の本はたくさん出版されていますが、今、私が読み始めている「ザ・シークレット」というのもその手の本ですが、まったくもってそのとおりだよなーと思わされたので、こんなことをかいてみました。

近いうちに応用身体運動学研究所としても「マイナス思考の除去をして、プラス思考を植え付ける方法」のテーマでワークショップをすることになります(したいではプラス思考とは言いません)。私のプラス思考が本物なら実現することになります(汗)。

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2008年1月22日 (火)

降圧剤の危険性を知るべきです

 高血圧の危険性(動脈硬化やそれに付随する脳出血、脳梗塞など)ばかりが、取りざたされて、血圧が高いとすぐに降圧剤が使われて、それにより血圧が下がると安心するという安易な考えが蔓延しているような気がします。

 本来、血圧が上がるのは、からだが、上げる必要があって上げている場合もありますから、それを薬により無理やり下げることは、時に必要な組織に血液が送り届けられない危険もあるということを、医療界は世の人に知らしめる義務があります。年齢があがり、脳の血管が狭くなっている人に、血圧が高いからといって、安易に降圧剤を処方すれば、脳への酸素不足が生じる可能性があります。大抵、医師からは否定される意見ですが、ボケのきっかけになるかもしれません。

 今日は、歩く時にふらふらするという患者さんが来ましたので、血圧を測定したところ、上が100mmHg程度になっていました。この方は高血圧のために降圧剤を処方されていますが、薬が効きすぎて血圧が下がりすぎていたようです。血圧は日内変動がもともと大きいので、朝血圧が下がる時に薬を使用すると、時には必要以上に下がることがあります。

 脳の検査にバレー徴候をみるものがありますが、この方は手も足も陽性になっていました。バレー徴候陽性は、脳梗塞などの錐体路障害(運動麻痺がおこります)で生じる危険サインですから非常にまずい事態です。この患者さんには掛かりつけの内科の先生に相談するように指示しましたが、降圧剤の使用は、本来、決め細やかなアドバイスが必要なものだと私はいつも思います。

 この患者さんの場合は、脳を浸している液体の循環を促進するような手技を施すことで、バレー徴候を陰性化させるとともにふらつきも解消することができましたが、本質的解決は、生活習慣を改善すること、降圧剤の決め細やかな使用にあると思われますが、医師の意識改革がないとなかなか実現できないのがむずかしところです。

すくなくとも、高血圧にならない努力、なりかけの人は改善の努力を早期に始めることが国民の義務だと私は思います。あなたの無自覚が医療費を増大させ、将来、子供たちをはじめ様々な人に負担をかけることになると知るべきです。

 

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2008年1月21日 (月)

もっともっとカイロプラクティックを世に知らしめなくてはいけません!

最近、患者さんによく言われることが「自分の症状が、骨のずれと関係があるとは思わなかった」とか「整骨と整体とカイロプラクティックの違いがわからなかった」というようなことです。まだまだ、カイロプラクティックの特徴、健康と骨組みとの深い関係を根気良く、積極的にアピールし続けなくてはいけないと痛感させられます。

 骨のずれという表現はカイロプラクター同士の会話としては、すこし乱暴ですが、患者さんに対してはわかりやすいので、そういう説明をしています。そこで、今回は、このあたりのことについて少し詳しく説明してみます。

 ヒトは骨に内臓や筋肉がぶら下がり、皮膚でそれらを包んでいる動的構造体ですから、骨は運動を効率よく伝える器官でもあります。ですから骨と骨の間が適度に安定(裏を返せば適度に動かないと)していないと、つまりくっついていたり、不安定であったりすると運動(エネルギー)がうまく伝わりません。ある部分が大きく動きすぎると、他の部分へ運動が伝わりませんし、動かないところがあると、運動エネルギーが骨内部で熱エネルギーに変換されることになります。大きく動かされるところも摩擦で熱エネルギーに変換されるし、動かないところも骨にひずみ力が働き、熱エネルギーに変換されます。結果として局所鬱熱を生み出し、運動エネルギーの伝達が損なわれることになります。

 生命とは運動状態にあることで静止は死であるとは古より言われていることですから、くまなく全身に運動エネルギーが伝わることが、自然治癒力が働いている状態ともいえるわけです。

 カイロプラクティックの生命哲学は、ユニバーサルインテリジェンス(宇宙の叡智)から流れ出るイネイト(命の働き=自然治癒力)が全身に行き渡る時、生命は最高の働きを保つことができると考えています。イネイトが全身に行き渡ることと、運動エネルギーがくまなく全身に伝達されることとは同じことです。ですから、背骨を調整し、四肢を調整するわけです。生命の働きが局所に滞ることのないように。これこそが、カイロプラクティックの存在意義であり、他の治療と区別されることです。ただ関節の問題を解消して、局所の痛みをとることを狙った治療ではないということの説明でもあります。カイロプラクティックと整体あるいは整骨との違いは、こういう考えを基盤にもってヒトを診ているかかどうかにあります、と私は思うわけです。

 この世の中には、原因不明の痛み、病気で苦しんでいるひとがたくさんいますが、正しいカイロプラクティックに出会うことができれば、どれだけ多くの人が救われるかわかりません。ですから縁を増やすのもわれわれの仕事です。

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2008年1月20日 (日)

経頭蓋内視療法の秘密

 またまた、聞きようによってはあやしい話ですが、未来の医療界では、きっと当たり前になる考え方、手法だと思いますので、これから医療界、カイロプラクティック界で活躍するであろう若い人たちへの遺言(まだまだ私も年寄りではありませんが)のつもりで、確立した理論的裏づけを待たずに、ブログの無責任性を活用して、すき放題に言いっぱなししていきますので、自分で吟味しながら取捨選択していってください。ただ、この前も書きましたが、理論的な話、科学的な思考、分析もちゃんとやっていますから、それはコラム(HPの)等で確認してください。あくまで研究者のつもりです、応用身体運動学研究所の所員かつ代表ですから。

 では、本題。経頭蓋内視療法とは、私の造語ですが、頭蓋骨から意識のカメラを体内に挿入して、内部を視ることでなされる治療法の意味です。

 具体的には「患者さんの頭をソフトに触ります、そしてその膨張収縮にまず意識を集中します、その間数秒から~十数秒、圧力波を捉えたら、それを感じたまま、意識で体内探索をします、脳から脊髄へ、鼻から気管、気管支へ、口から胃腸、肛門へと解剖学の知識を活用して、時にMRI(脊髄を外から観察する場合)のように、時に内視鏡のカメラ(腸管などの管内部を探索する場合)になったつもりで、探索していきます。こうすることで体内映像が浮かんできます、そしてなにか気になるところがあればそこに意識を集中して観察します。」ただ、それだけです。手で圧力を感じながら、意識で体内探索するためには、同時に二つのことを感じなければいけないので、訓練は必要です。これは、一般的な気功とはまったく違う効果を得ることができると思います、きっと。当然、高いレベルの解剖学知識を必要としますので、医療のプロのみが可能な方法ですが、ぜひ解剖学の知識を高めつつこの訓練をしていただきたいと、これからの人たちに期待します。漠然と気を感じるとか、気功をするとかとはまったく違うレベルのものだと実感できるでしょう、きっと。

 私自身の経頭蓋内視療法も、まだ発展途上ですが、「一昨日に来院した患者さんの下行結腸下部になにか閉塞しているものを視たので、それをよく観察していたら、患者さんが急にトイレに行っていいかと聞くので、どうぞということになりました。患者さんもなぜ急に催したのかわからんという顔をしていましたが、意識の向くところに気行く、気行くところに活動が生じる、この場合は蠕動運動ですが、ということが生じたわけです、まさにデトックスをしたことになりました。

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我は、とげぬき地蔵なり!?

今日、来院した、手足がしびれる患者さんに、音叉セラピーを施したところ、中指から「ようじのようなとげ」が出ていき、しびれが減少しました。もちろんサイババではありませんから、イメージのつまようじです。音叉セラピーは、カイロプラクティックの流れをくむキネシオロジーから派生した方法で、経絡を調整するものですが、この治療法を行うと、人により様々な映像が浮かぶことがめずらしくありませんが、今回は「とげぬき地蔵」ばりの効果があったようです。
 一昨年と昨年に一回ずつ「巣鴨のとげぬき地蔵」をお参りしたからかも、などと実は思っていません。巣鴨に行った目的は、三浦屋という有名なスッポン料理を食べることでしたから。
 こういうことが起こると、患者さんにはいつも「どうして?」って聞かれるのですが、「わかりません、どうしてでしょうね〜、まっ気にするほどのことでもありませんよ。」と大抵答えます。摩訶不思議現象好きでない人になら、冗談で「我は、とげぬき地蔵の生まれ変わりなり(厳かな顔をして)」と答えてもいいのですが、この方は、江原さんの番組が好きな方ですから、そんなことを言ったら危険です。実際のところ本当に分かりませんし。不思議なことはいくらでもありますが、ほとんど分からないことばかりです。おそらくは、しびれている部分に気が流れ出した時に、その方にとっては棘がおきに入りのイメージだったのでしょう、きっと。ちなみにとげぬき地蔵は病気治しのお地蔵様だそうです、そういえばうちの子がまだかわいかった頃、2〜3歳の頃ですが、お地蔵さんの前に来ると手を会わせていました、なにも教えていないのに。

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2008年1月19日 (土)

信じられない医師を信じないために!

一昨日のことですが、いつも定期的メインテナンスにきている60歳代の女性の患者さんが急遽予約をとって、普段の症状とはまったく違う、急性の右上肢の強い痛みで来院しました。手掌には皮疹もありましたので、私の所に来る前に皮膚科を受診していたのですが、「のどに入ったウィルスのせいで手に湿疹ができている」との説明を受けたようです。患者さんは腕立て伏せをしたから腕が痛くなったと考え、手掌の痛みとは別物と判断したようですが、私はその皮疹を見た瞬間にヘルペス性の神経痛を疑いました。ですが「患者さんの聞き間違いかもしれませんし、ひょっとしたら私の知らないウィルス性の神経痛もあるかもしれないと思い、まあいずれにしても、抗ウィルス薬が出ているだろうから、とりあえず大丈夫だろう」と早合点したのが結果的に失敗でした。

 今日患者さんが処方された薬を見たら、なんと抗生剤と胃薬とアレルギー薬が出ているではないですか、唖然としました。溶連菌感染症と判断したのかもしれませんが、帯状疱疹あるいは単純ヘルペスだとすれば、早期の抗ウィルス剤を使用することが肝要なのに、水泡が増加して痛みも増強している事態となっていました。

 私は、治療をせずにすぐに内科の受診を勧め、帯状疱疹と診断され、アシクロビル(抗ウィルス薬)が処方されることになりました。患者さんには「一昨日来院した時に、明日来るように言ってくれればこんなことにならなかったのに」と責められたので「ごめんね」と誤りましたが、皮疹の見立ての専門家である皮膚科を信用できないとなると困った事態です。皮膚になにも現れていない状態で帯状疱疹を見抜くのは難しいこともありますが、皮疹が出ていて見立てを誤るとは、言う言葉がみつかりません。

 基本的には、私は、医師の誤診には寛容です、なぜなら人はミスをするもので、医師だけがミスをしないと思う根拠を持ち合わせていないからです。ですが、さすがにこれはまずい、プロ失格です。

 普段から信頼できる医師を見つけておくしか「信じられない医師を信じるはめになる」のを防ぐ手立てはありません。私もこれからは、もっと慎重にならなくてはいけません。

 

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2008年1月17日 (木)

出すべし!出すべし!です

うんこもおしっこも、汗も咳も痰も、おならもゲップも全て出すべしです!健康の基本は、加えることではなく、出すことです。最近はやりのデトックスは出毒sです。
  人は動くために、食物を摂取しエネルギーに変化させて生きていますが、100%の効率でエネルギーに変換できるわけではないので、残留物、残留エネルギーが発生します。それらを排出しないと、毒と熱で健康を害することになります。うんことおしっことおならで毒を排出し、おしっこと汗で熱を排出し、咳と痰で体外から侵入した細菌や塵埃を排出することで体内環境をクリーンにするわけです。
   ということは、無闇な下痢止め、咳止めを服用することは、健康を害することになりますし、汗をかかないような生活は不健康です。健康法の基本は、宿便出し、汗出し、断食、運動、瞑想(こころの毒出し)とヨガでは教えていますが、いかに不要なものをを出し切るかということを重視していたかがわかります。サプリを摂る前にうんこを出せです。解熱剤を使うより、汗を出せです。基本が健康な人は無闇に薬を使ってはいけません。風邪ぐらいで安易に薬などは使う必要はないのです。インフルエンザですら、基本が健康なら薬などは必要ない場合がほとんどです。あまりにも安易に薬を使い過ぎる危険を考えて欲しいものです。
 昨夜は、なにかのウィルスに侵入されて、下から出すべし出すべしを数回実行して、今日は元気に仕事をしている私です。「一日3回食事する人は、三回用をたすのが正常で、一日一回の用たしで済むひとは便秘だ」が持論です(笑い)。

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2008年1月15日 (火)

今度は「かに」を食べました!

ただの個人的日記です。   1月11日の新年会では、やっと「かに」を食べました。忘年会はふぐさし、ふぐ鍋と、ふぐづくしだったのですが、やはり私には「かに」鍋の方がおいしく感じるのは庶民だからでしょうか、とにかく満足でした。この日も二次会はパークハイヤット(前回ホテルハイヤットと書いてしまいましたが間違いです)でしたが、51階のニューヨークバーでワインを飲みました。かなり洒落たバーなのでジャズバンド(おそらくアメリカ人)が生演奏しているのですが、正直、さすがと感じさせられるものではありませんでした。ボーカルの声量も、演奏もそれなりのものなのでしょうが、心に響くものがなにもありませんでした。ただ生活のために演奏しているからなのでしょうか?理由はわかりませんが、場を変える力がないからでしょう。昔、学生時代に庄野真代さんのコンサートに行った時に感じた、会場を一瞬にして自分の世界に変化させてしまうような影響力がないと一流にはなれないのでしょう、きっと。チャンスがあれば、ニューヨークのジャズバーに行ってみたいものです。

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2008年1月11日 (金)

スピリチュアルブームに警鐘を鳴らす!

 スピリチュアルブームなんか興味ないという人は、先を読まないで下さい。書いている私を、「阿呆か!」と思うでしょうから。阿呆と思われたくありません(笑い)。
 
  最近のスピリチュアルブームには、問題が多いような気がします。なんでもかんでも前世や霊障(霊により健康や人生の運不運が害されること)にする風潮が出てきているからです。
    健康の基本は、やはり自分のライフスタイルですし、運不運なども、そのひとの意識状態がもっとも大切な要因と理解すべきです。その基本を忘れて、前世だ、過去世だ、霊のしわざとする思考は、「自分の人生の主人公が自分である」というもっとも重要なことを失わせる危険があります。そして普通の人達が見えないものが見える(いわゆる霊能者)というだけで、健康や人生の指導者に祭り上げたりするのは、おろかな行為ですし、危険ですらあります。スプーンを念力で曲げても(スプーン曲げが本当でも、トリックでも)、見せ物以上の価値がないのと同様に、霊が見えたって(本当でも幻覚でも)面白いものが見えるんだねという程度のものです。霊能者と言われる人と交流(交際)するのであれば、その人が常識人であること、知的であること、顔がおだやかであること、その人自身が幸せな生活をしていることなどを基準に、冷静に判断してほしいものです。参考までに霊能者とのつきあい方を列挙しておきます。
1.霊能者が言っていることが正しいとは思わないこと。それだけで自分より人生をよく理解しているなどと決して思わないこと。視力が驚異的にいいからといって、その人の言うことが正しいとは言えないのと同じです。
2.自分が考えていることを当てたり、言ってないことを当てたりしたって、その人が神様のように正しいことをいっているなどと思わないこと。勘がすこぶるいいだけで、勘がいいからといって、その人が正しいなどという保証がないのと同じです。
3.天使の言葉、神様の言葉を伝えるなどという人は、特に要注意です。そういうことは意識のチューニングで起きる現象ですから、天使や神様と同レベルに意識がないと不可能なことです。そんな人はそうそういるものではありませんから、ほとんど「うそ」と思った方が無難です。神様、天使がいちいち個人指導をするなんて常識的にありえないでしょうし。
4.自分のことを、ちょっと変わった特技があるだけで、特別な人間でもなんでもないと思っている人は安心です。

  というわけで、お金がすべて、物質がすべてという風潮の反動でスピリチュアルブームが来ているのでしょうが、行き過ぎもまた問題です。すべてバランスです、と思うのですが。

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2008年1月 7日 (月)

砂袋トレーニングはいけません!

膝の悪い患者さんが太ももの筋肉をつけようとして、砂袋を足首に巻いて膝の屈伸をするトレーニングで、せっかくよくなってきている膝を少し逆戻りさせてしまいました。そのトレーニング中に、膝のなかでゴリゴリ音がしていたそうです。その方はスポーツ好きな方で、いつもスポーツジムに通っている人なのですが、「痛いところがある=筋力不足」のお決まりの思考パターンに支配されて実行したようです。そもそも筋力不足あるいは筋バランスの悪さで痛くなるなんていうのは、かなり老化して満足にあるけない人、しばらく寝たきりだった人、極端に偏ったトレーニングをし続けている人などに適応される理論であって、おばさん&おじさんスポーツ愛好家には関係のない考え方です。いつもいつも私は、「筋力不足なんてことは、あなたの膝痛には関係ありませんよ!」と説明していたのですが、テレビにでてくる医学博士の言や病院のリハビリで行われていること=正しいこと と思い込み、すぐに実行してしまうのです。そしてほとんど悪くして来院してくるのです。患者さんは私の話を理解しないものなんだな〜といつも痛感させられています。ですから私は、おまじないのように同じことを日々言い続けていることがいくつかあります。その一つが「関節を引っ張りながらの運動は絶対にだめ、関節軟骨がますます劣化してしまいますよ」です。これは構造医学の生体潤滑理論から学んだ考え方ですが、長年の経験で正しいと確信していることでもあります。まずはゆっくり歩行、時に、その場屈伸が一番安全で、正しい膝の運動ですとたいていの人にはいいます。あとは、あらぬことを仕入れて実行しないでね〜と言っています、しょっちゅう。笑いながら。

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2008年1月 1日 (火)

ナンバ歩き・常足(なみあし)歩行

ここ数年、ナンバ歩きやその発展形?である常足歩行という言葉を聞くことが多いいのですが、朝日新聞(2007年8月5日:心体観測 武術の目⑥ 多田 容子 記述)の切り抜きを、つい最近、友人から見せてもらって ナンバ歩きの理解に釈然としないことがあったので、そのことに触れてみます。それは、「江戸時代以前の日本人は手を振らない歩きをしていた」というようなこと、この記事では間接的にしか書かれていませんが、「右足前のときは右手も前に出して歩く」などの解釈、ナンバ歩きは合理的な歩き(省エネ歩行)であるというような論旨です。このような論調の記載は、他でも目にすることがあるのですが、まずは、ナンバ歩き(上半身をねじらない、手をあまり振らない、同側の手足を前に出すなどの特徴を有する歩行)をよく考えてみることからその真実が見えてくるだろうと思っています。

 私は、江戸時代以前の日本人がみなナンバ歩きしていたとは思いませんし、それが人間としての自然な歩きだとも思いません。求められる生活様式、作法によって必然的に生じた身体操作だと思っています。たとえば

1.袴をはいて歩く場合、足幅(進行方向に垂直な方向の幅)を広くしないと、すそ?がこすれあうし、時に踏みつけることになりかねない。このように足幅をひろくした場合は、上半身のねじれは少なくなるので、ナンバ歩きになる。

2.武士のマナーとして、足音や衣のこすれあう音を嫌ったと思われるので、すり足で移動する。この場合手足を大きく振らないことが体のねじれを減らすのでナンバ歩きになる。

3.刀をさして歩く場合、腰の水平回旋が大きいと、刀が揺れていざというときに刀をすばやく抜けないし、着物が乱れる。これも体をねじらない手足をあまり振らないナンバ歩きになる。

4.飛脚は、肩に郵便物をいれた篭(取っ手付の箱)を担ぐので、上半身が左右に回旋すると走りにくいので、できるだけ上半身が揺れないように走った。当然手は篭を持つので振らない。結果としてナンバ走りになります。(ある雑誌では右手で担いでいる飛脚が、右足を前に出している瞬間の写真を載せて、同側の手足が前に出ている例として紹介されていた、これなどはちょっと詐欺的です。では、左足を前に出す時は、篭を逆側に持ち替えるとでもいうのでしょうか?)

などです。求められる要求によって生じた歩行方法がナンバ歩きであるということです。日本人でも、そういう要求がなされていない人であれば、他の国の人たちと特別違う歩きをすると考えるのは無理があります。

ですから、洋服、靴、求められる作法が異なる現代人が、歩く時に、ナンバ歩きをする必要はありません。体をねじる動きは、身体運動として重要な動きですから、ウォーキングをナンバ歩きにすることは賛成できません。

では、スポーツへの応用としてはどうでしょうか(武術や日本舞踊などの身体芸術では、ナンバ歩きが普通に使用されますが、求められる動きからの必然です)?これは身体操作に要求されることがなにかということで決まることです。

1.陸上の短距離走、長距離走など、速く走ることを目的にした場合、ナンバ走りがいいのかどうか、今の私には答えるだけのものがありませんが、上半身を使い切っているとは言えない走法がベストではないような気はしますが。不要なゆれやねじれがないのは当然ですが、必要なねじれまで抑えてしまってはいけないような気がします。躍動性を失わせる走りになるのならベストではないでしょう、きっと。

2.バスケットボールでのドリブルは当然、飛脚と同じようなことが求められますから、走る時にむやみに上半身がねじれる使い方をすることはありえませんので、当然ナンバ的走法が必要です。

3.サッカーでの走りでは、方向転換が頻繁に求められるので、その時々によって使い分けが必要でしょう。クルッと体を回旋させるときは体にねじれが必要ですから。

ということで、求めるものに応じて、場合によっては使えるひとつの歩法、走法であるという当たり前の認識が必要であろうと思うわけです。

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